2008年10月11日
コザ文学賞応募します
今度は、コザ文学賞ショートストーリー部門に挑戦します。
ひまな方は読んでみてください。
いろいろ言いたい方は、
18日の銀天街まつりで。
青年部長 仲田
コザ。本町通り。黒人街。
もう30数年も前の話である。あの当時、僕が通っていた小学校は、校区が人口密集地帯だったため、生徒数の多いマンモス校としてよく知られていた。しかし、あるひとつのことを除いては、いたって普通のどこにでもある小学校だったと思う。僕のクラスは5年3組。教室が足りないため、家庭科室を代用して使っていた。クラスメートにアイナという黒人のハーフの女の子がいた。彼女は、英語がしゃべれるわけでもなく、まったく僕らと同じ発音で日本語を話していた。沖縄語を話していたといったほうが、適切かもしれない。もっと言えば、僕よりはるかに方言が上手だった。体格は、男子よりも大きく、クラスで一番だった。もうすでに大人のような体つきをしていた。この小学校は、彼女のようないわゆるハーフの子が多いことで有名だった。だからといって、国際的な雰囲気が漂っているかというと、そうではない。肌の色のちがう子どもが多くいるというだけで、あとは、まったく普通の小学校であった。なぜ、肌の色のちがう子がいるのか。そのわけは、小学校からほんの数百メートルの距離にある場所に関係していた。
コザ。本町通り。黒人街。泥沼化したベトナム。強国アメリカ合衆国が辛酸をなめた戦争。取り返しのつかない失敗。貧困との引き換えにオキナワに送られてきた黒人たち。死への旅。アメリカ発コザ経由ベトナム行き。黒人たちは、死を目前にしても人種差別から解放されることはなかった。せめて、オフの時だけは。本町通り。黒人のユートピア。ベトナム行きは死を意味する。明日死ぬやも知れぬ身の最後の狂乱。殴り合い。殺人。レイプ。銃声。けたたましいサイレンの音。今思えば、異常すぎる場所。僕らはその異常さを何事もなく当たり前のように受け入れていたのだ。そこで働くたくさんの沖縄の女性たち。僕らは子ども心にすべて分かっていたような気がする。人が生きるということの過酷さ。せつなさ。むなしさ。悲しみ。どうにもならないこと。ふれてはいけないこと。そこで、沖縄の女性たちと黒人たちとの子が生まれた。アイナもそのひとりである。
ある日、事件は起こった。5年3組の教室。静かに黒板の文字を書き写す子どもたち。教室のドアが突然開き、方言で叫ぶ女の声。髪をふりみだしながら、入ってくる鬼の形相。片手には包丁。恐ろしさのあまり、誰一人、動けない。女はアイナの母親であった。酒の匂いがした。「なぜ、アイナをいじめるのか」「だれがいじめてるのか」「こんどやったら、ただではゆるさない」と方言で怒鳴り散らした。僕らは、とんでもないことになったと身を縮めていた。みんな、思い当たることがあったのだ。アイナのことを「肌の色」でいじめていたのだ。しかし、それは、今の悪質ないじめとは違う、「チビ」とか「デブ」とかいうたぐいの悪口程度のものだったような気がする。また、本気にけんかになれば、身体の大きいアイナのほうが僕らより強かっただろう。だからといって、いじめていいはずはなく、「肌の色」のことを言われることは、アイナにとって、また母親にとってもたいへんなことだったのだ。「肌の色」をもちだすことは、自分たちが考えている以上に深刻だったのだ。その日以来、僕らは、「肌の色」でいじめることをやめた。もちろん、アイナに対しても、ほかの子どもたちに対しても。
あれから、時がたち、僕は小学5年生の子の父親になった。母校に通う息子の授業参観。校舎も建て変わり、生徒数も減り、学校の雰囲気が、僕らのころとはまったく違う。教室の後方。僕は数名の母親たちと、子どもたちの様子をうかがっていた。黒板に向かい、静かに書き写す子どもたち。教室には、前方と後方のドアがあり、授業中は、後方のドアを利用する。突然、前方のドアが開き、間違えて入ってきた母親にみんな注目し大笑いがおこった。
その一瞬、僕の頭のなかで、なぜか、30数年前のアイナのことがよみがえってきた。もう、忘れていたと言ってもいいくらいのことだったはずなのに、あの時のことが、はっきりと目の前に現われたのだ。
「あっ、やられた。」
そう、思った。あれは、アイナの母親の一世一代の演技だったのだ。自分の娘を守るための、身体を張った演技だったのだ。今ごろ、30年という時を経て、40過ぎの親父になった今ごろ、スーと胸に入ってきた。分かったのだ。ほんとうに錯乱状態の母親の話を先生をふくめ、子どもたちが静かに聞けるはずはないのだ。第一、アイナの母親は教室に入ってくると、僕らに近づくことなく教壇で叫んでいた。僕らは、確かに恐怖心を抱いた。しかし、直接なにかをされるという感じではなかった。だから、誰ひとり逃げることなく静かに座っていられたのだろう。アイナの母親はすべて考えていたのだ。感動した。そして、アイナの母親に感謝した。もちろん、刃物を持ち出すことは、悪い。決して、やってはいけないことである。今、まねをすると大問題になるだろう。しかし、あれから、僕は「肌の色」で人を差別してはいけないということを肝に銘じたのだ。たぶん、僕らは、あの芝居のおかげで、大げさに言えば、人の生き方みたいなものを教えられたのだ。教室に机を並べて座る子どもたちの背中をみつめ、涙が流れた。自分は強い父親になれるだろうかと思った。
まさにコザ。本町通り。黒人たちのオアシス。テーラーで仕立てたばかりのスリーピースに身を包み、シルクハットをまぶかに被り、ピカピカ革ブーツで闊歩する黒人たち。まるで映画スターのように。肩には、大型ラジカセをかつぎ、大音量で流れるブラックミュージック。決して本国では味わえない贅沢。ベトナムで明日死ぬ者たちの狂乱の場。そこで、したたかに生きる女性たち。きらびやかなバーのネオン。道ばたで媚びを売る厚化粧の女性たち。陽気な高笑い。酒と小便の臭い。
その裏には、家庭を守り、子どもを育て、ひっそりと暮らす小さな幸せがあったのだ。女性たちのもうひとつの顔。母としての素顔。黒人の子を身ごもったゆえの苦しみ。葛藤。自虐。せめて人並みの幸福。理屈では語れないのだと思う。コザは、国際的な場所ではない。そういう言葉では表せないのだ。あえて言うなら、生存競争。生きるか、死ぬかなのである。生きることへの執着心。そこから生まれるエネルギーの暴走。魂と魂の揺さぶり合い。そして、静寂。
戦後、筋書きのないドラマが始まった。初めから計画性などないのだ。コザの名そのものが間違いから生まれた。もともと、計画的にとか、理性的にとか、行儀よくなんて無理なのだ。もうそろそろ、にあわないスーツを脱ぐ時が来てはいまいか。僕らは、遠回りしすぎてはいないだろうか。沖縄のアイデンティティを内に秘めていたコザ。コザが、だんだん遠く離れていくような気がするのは僕だけだろうか。もっと直接的に、もっと感情的に、コザそのものを生きられないだろうか。僕らは、感性の生き物なのだ。コザの先輩たちは、おもしろいか、おもしろくないかで生きてきたのだ。おもしろいことが、音楽になり、文学になり、アートになる。おもしろくないことは、時にけちらし、時に胸に秘め、それでも、したたかに生きてきたのだ。魂と魂の揺さぶり合いのなかで、本質をしっかり見極める感性。その感性こそ受け継いでいかなければならないのだ。コザの人がコザの人であるためには、もっと直接的に、もっと感情的に、感性を信じて、したたかに生きていくことでしかないと思う。もしかしたら、その成果は、行動している時には気づかないのかもしれない。それでも感性に正直に生きよう。30年後、気づいたっていいじゃないか。僕らの感性を、僕らの行動を、きっと子どもたちが受け継いでくれると信じて。
ちなみに、「もっと直接的に、もっと感情的に」とは、酒のんで暴言をはくことではありません。
「おまえだろ!」って。
最後は、もちろん、
コザだから、人への優しさを忘れずに。
終わり
ひまな方は読んでみてください。
いろいろ言いたい方は、
18日の銀天街まつりで。
青年部長 仲田
コザ。本町通り。黒人街。
もう30数年も前の話である。あの当時、僕が通っていた小学校は、校区が人口密集地帯だったため、生徒数の多いマンモス校としてよく知られていた。しかし、あるひとつのことを除いては、いたって普通のどこにでもある小学校だったと思う。僕のクラスは5年3組。教室が足りないため、家庭科室を代用して使っていた。クラスメートにアイナという黒人のハーフの女の子がいた。彼女は、英語がしゃべれるわけでもなく、まったく僕らと同じ発音で日本語を話していた。沖縄語を話していたといったほうが、適切かもしれない。もっと言えば、僕よりはるかに方言が上手だった。体格は、男子よりも大きく、クラスで一番だった。もうすでに大人のような体つきをしていた。この小学校は、彼女のようないわゆるハーフの子が多いことで有名だった。だからといって、国際的な雰囲気が漂っているかというと、そうではない。肌の色のちがう子どもが多くいるというだけで、あとは、まったく普通の小学校であった。なぜ、肌の色のちがう子がいるのか。そのわけは、小学校からほんの数百メートルの距離にある場所に関係していた。
コザ。本町通り。黒人街。泥沼化したベトナム。強国アメリカ合衆国が辛酸をなめた戦争。取り返しのつかない失敗。貧困との引き換えにオキナワに送られてきた黒人たち。死への旅。アメリカ発コザ経由ベトナム行き。黒人たちは、死を目前にしても人種差別から解放されることはなかった。せめて、オフの時だけは。本町通り。黒人のユートピア。ベトナム行きは死を意味する。明日死ぬやも知れぬ身の最後の狂乱。殴り合い。殺人。レイプ。銃声。けたたましいサイレンの音。今思えば、異常すぎる場所。僕らはその異常さを何事もなく当たり前のように受け入れていたのだ。そこで働くたくさんの沖縄の女性たち。僕らは子ども心にすべて分かっていたような気がする。人が生きるということの過酷さ。せつなさ。むなしさ。悲しみ。どうにもならないこと。ふれてはいけないこと。そこで、沖縄の女性たちと黒人たちとの子が生まれた。アイナもそのひとりである。
ある日、事件は起こった。5年3組の教室。静かに黒板の文字を書き写す子どもたち。教室のドアが突然開き、方言で叫ぶ女の声。髪をふりみだしながら、入ってくる鬼の形相。片手には包丁。恐ろしさのあまり、誰一人、動けない。女はアイナの母親であった。酒の匂いがした。「なぜ、アイナをいじめるのか」「だれがいじめてるのか」「こんどやったら、ただではゆるさない」と方言で怒鳴り散らした。僕らは、とんでもないことになったと身を縮めていた。みんな、思い当たることがあったのだ。アイナのことを「肌の色」でいじめていたのだ。しかし、それは、今の悪質ないじめとは違う、「チビ」とか「デブ」とかいうたぐいの悪口程度のものだったような気がする。また、本気にけんかになれば、身体の大きいアイナのほうが僕らより強かっただろう。だからといって、いじめていいはずはなく、「肌の色」のことを言われることは、アイナにとって、また母親にとってもたいへんなことだったのだ。「肌の色」をもちだすことは、自分たちが考えている以上に深刻だったのだ。その日以来、僕らは、「肌の色」でいじめることをやめた。もちろん、アイナに対しても、ほかの子どもたちに対しても。
あれから、時がたち、僕は小学5年生の子の父親になった。母校に通う息子の授業参観。校舎も建て変わり、生徒数も減り、学校の雰囲気が、僕らのころとはまったく違う。教室の後方。僕は数名の母親たちと、子どもたちの様子をうかがっていた。黒板に向かい、静かに書き写す子どもたち。教室には、前方と後方のドアがあり、授業中は、後方のドアを利用する。突然、前方のドアが開き、間違えて入ってきた母親にみんな注目し大笑いがおこった。
その一瞬、僕の頭のなかで、なぜか、30数年前のアイナのことがよみがえってきた。もう、忘れていたと言ってもいいくらいのことだったはずなのに、あの時のことが、はっきりと目の前に現われたのだ。
「あっ、やられた。」
そう、思った。あれは、アイナの母親の一世一代の演技だったのだ。自分の娘を守るための、身体を張った演技だったのだ。今ごろ、30年という時を経て、40過ぎの親父になった今ごろ、スーと胸に入ってきた。分かったのだ。ほんとうに錯乱状態の母親の話を先生をふくめ、子どもたちが静かに聞けるはずはないのだ。第一、アイナの母親は教室に入ってくると、僕らに近づくことなく教壇で叫んでいた。僕らは、確かに恐怖心を抱いた。しかし、直接なにかをされるという感じではなかった。だから、誰ひとり逃げることなく静かに座っていられたのだろう。アイナの母親はすべて考えていたのだ。感動した。そして、アイナの母親に感謝した。もちろん、刃物を持ち出すことは、悪い。決して、やってはいけないことである。今、まねをすると大問題になるだろう。しかし、あれから、僕は「肌の色」で人を差別してはいけないということを肝に銘じたのだ。たぶん、僕らは、あの芝居のおかげで、大げさに言えば、人の生き方みたいなものを教えられたのだ。教室に机を並べて座る子どもたちの背中をみつめ、涙が流れた。自分は強い父親になれるだろうかと思った。
まさにコザ。本町通り。黒人たちのオアシス。テーラーで仕立てたばかりのスリーピースに身を包み、シルクハットをまぶかに被り、ピカピカ革ブーツで闊歩する黒人たち。まるで映画スターのように。肩には、大型ラジカセをかつぎ、大音量で流れるブラックミュージック。決して本国では味わえない贅沢。ベトナムで明日死ぬ者たちの狂乱の場。そこで、したたかに生きる女性たち。きらびやかなバーのネオン。道ばたで媚びを売る厚化粧の女性たち。陽気な高笑い。酒と小便の臭い。
その裏には、家庭を守り、子どもを育て、ひっそりと暮らす小さな幸せがあったのだ。女性たちのもうひとつの顔。母としての素顔。黒人の子を身ごもったゆえの苦しみ。葛藤。自虐。せめて人並みの幸福。理屈では語れないのだと思う。コザは、国際的な場所ではない。そういう言葉では表せないのだ。あえて言うなら、生存競争。生きるか、死ぬかなのである。生きることへの執着心。そこから生まれるエネルギーの暴走。魂と魂の揺さぶり合い。そして、静寂。
戦後、筋書きのないドラマが始まった。初めから計画性などないのだ。コザの名そのものが間違いから生まれた。もともと、計画的にとか、理性的にとか、行儀よくなんて無理なのだ。もうそろそろ、にあわないスーツを脱ぐ時が来てはいまいか。僕らは、遠回りしすぎてはいないだろうか。沖縄のアイデンティティを内に秘めていたコザ。コザが、だんだん遠く離れていくような気がするのは僕だけだろうか。もっと直接的に、もっと感情的に、コザそのものを生きられないだろうか。僕らは、感性の生き物なのだ。コザの先輩たちは、おもしろいか、おもしろくないかで生きてきたのだ。おもしろいことが、音楽になり、文学になり、アートになる。おもしろくないことは、時にけちらし、時に胸に秘め、それでも、したたかに生きてきたのだ。魂と魂の揺さぶり合いのなかで、本質をしっかり見極める感性。その感性こそ受け継いでいかなければならないのだ。コザの人がコザの人であるためには、もっと直接的に、もっと感情的に、感性を信じて、したたかに生きていくことでしかないと思う。もしかしたら、その成果は、行動している時には気づかないのかもしれない。それでも感性に正直に生きよう。30年後、気づいたっていいじゃないか。僕らの感性を、僕らの行動を、きっと子どもたちが受け継いでくれると信じて。
ちなみに、「もっと直接的に、もっと感情的に」とは、酒のんで暴言をはくことではありません。
「おまえだろ!」って。
最後は、もちろん、
コザだから、人への優しさを忘れずに。
終わり
Posted by コザ銀天大学 at 18:20│Comments(5)
│コザ文学賞応募作品
この記事へのコメント
すごい。仲田さんは文学青年だったのだ!
Posted by kozakura at 2008年10月12日 15:09
泣かされた・・・
仲田さんに泣かされた・・・
良かったです。
誤字、訂正して、文学賞、応募しましょうね(笑)
仲田さんに泣かされた・・・
良かったです。
誤字、訂正して、文学賞、応募しましょうね(笑)
Posted by okei at 2008年10月14日 17:30
すべては、間違いから始まったのだ。
あとで、こっそり、おしえてね。
青年部長
あとで、こっそり、おしえてね。
青年部長
Posted by 仲田 at 2008年10月15日 09:12
初めまして、南島中毒と申します。
足跡たどってまいりました。来てくださってアリガトウゴザイマス。
コザを舞台にした「弥勒世」(馳星周)という小説を読みました。
この小説はまさに、時代背景がこの文章と重なっています。
小説はリアルには描かれていましたが、その時代を生きたヒトの
書かれる文章はやはり重みがありますね。
ワタシもこんな文章が書けたらな~と思いましたが、書けないのは
文章力のなさではなく、生きてきた重みの問題なのでした、涙
これからもヨロシクお願いいたします。
足跡たどってまいりました。来てくださってアリガトウゴザイマス。
コザを舞台にした「弥勒世」(馳星周)という小説を読みました。
この小説はまさに、時代背景がこの文章と重なっています。
小説はリアルには描かれていましたが、その時代を生きたヒトの
書かれる文章はやはり重みがありますね。
ワタシもこんな文章が書けたらな~と思いましたが、書けないのは
文章力のなさではなく、生きてきた重みの問題なのでした、涙
これからもヨロシクお願いいたします。
Posted by 南島中毒 at 2008年10月16日 21:14
南島中毒さんも
チャレンジしたほうがいいですよ。
チャンスですよ!
青年部長
チャレンジしたほうがいいですよ。
チャンスですよ!
青年部長
Posted by 仲田 at 2008年10月17日 09:48